日本史で勘違いされていること

自身の国の歴史でも、知らないことはたくさんあります。
また、フィクションであるドラマや小説などのイメージもあって実態とは違って周知されている勘違いされていることも多々あります。

今回は、日本の歴史の中で勘違いされがちなものをいくつかご紹介いたします。

平家にあらずんば人にあらず

皆さんご存知の通り、平安末期には武士が勢力を伸ばし始めた時代です。
その中でも非常に力があった平氏ですが、平氏と言えば「平家にあらずんば人にあらず」という言葉を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。実際に平氏はかなりの権勢を誇ったものの、その後に源氏に討たれて滅亡したこともあって、平氏のおごり高ぶりを象徴する言葉として有名です。

平家が最も隆盛を極めた時代の頭首である平清盛が、自分たちの権勢を誇っての言葉であると思っている方も多いかもしれません。

しかし、平家物語においては「平家にあらずんば人にあらず(此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし)」と言ったのは清盛ではなく、清盛の義弟の時忠の言葉となっています。
また、「人にあらず(人非人)」というのも「出世できない人」という程度の意味であるという説が有力です。

ちなみに、平時忠は壇ノ浦の戦いの際に捉えられ、捕虜となります。
源義経に庇護を得るために娘を嫁がせるといったことをしましたが、結果として死刑にはならず、流罪になりました。
その結果として流刑地で天寿を全うしました。

楽市・楽座

戦国時代の経済政策として有名なものに楽市・楽座が挙げられます。
「楽市」は自由な商売を認める施策、「楽座」は楽市令の対象となった市場において、座(同業者組合)による商売の独占を防ぐ、楽市の強化のための施策です。
織田信長が経済政策として楽市楽座を考案し、普及させたと思われている方も多いのではないでしょうか。

実は、最初の楽市は天文18年(1549年)に近江国の六角定頼によって、居城である観音寺城の城下町石寺に布されたものだとされています。
また、今川氏真が、永禄9年(1566年)に富士大宮に楽市を布しています。
織田信長は、それらを参考に近江国の安土、近江国の金森、美濃国の加納にによる楽市・楽座を布いたとされています。

ちなみに、羽柴秀吉や柴田勝家といった信長の家臣も自身の所領において、楽市を単独で行っており、織田信長が経済政策として楽市・楽座を考案し、各地で普及させた訳ではなかったようです。

武士道

「武士道」という言葉にはどういったイメージがあるでしょうか?
正々堂々として卑怯なことをしない、主君に忠実といったような武士階級の倫理規範、価値基準といったものだと思われている方も多いのではないでしょうか。
結論から述べると、武士が活躍した時代においても武士道という言葉が広く一般的だったわけではなく、厳格な定義はありませんでした。

「夜討ち朝駆け」という言葉があります。
マスコミの記者が、早朝や深夜に取材先を訪問する様を言った言葉ですが、元々は夜や早朝といった相手が油断する時間帯に奇襲するという意味です。
「夜討ち朝駆けは武士の習い」とまで言われるほどに夜討ち朝駆けが常套手段だった訳ですが、正々堂々というイメージは覆るのではないでしょうか。

「武士道」について述べている人の言葉をご紹介いたします。

朝倉宗滴

“武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が本にて候”

意味はそのまま「武士というものは犬と言われようと、畜生と言われようと、勝つことこそが最も大事である」と説いています。
戦国初期に活躍した武将の言葉としての重みがあります。

山本常朝(葉隠)

“武士道と云は、死ぬ事と見付たり”

この一説だけが有名なので、武士は目的を果たすためには潔く死ぬことすらいとわないと思っている方が多いと思われますが、全く違います。
葉隠れにおいては「毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は……」というものがあり、本当に死ぬことではなく、死ぬ気で一生懸命やれといった意味であることが分かります。
江戸時代の武士のあり方を説いているといえるでしょう。

さて、「武士道」といえば新渡戸稲造の著書を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
これも、古来からある武士道を海外に紹介する目的で1900年にニューヨークで刊行されたもの……というには、武士の実態とは異なっています。

明治時代の日本は西洋の列強と張り合わなくてはならず、西欧のノブレス・オブリージュと同等のものがあるといったようなコマーシャル目的といった側面が強かったのかもしれません。

ひょっとしたら、日本人が一番勘違いしている言葉が、この「武士道」かもしれません。

戦中の民主主義

戦時中の日本は軍国主義で、軍部による独裁政権で民主主義などなかったと思っている方も多いかもしれません。
むしろ、全く異なります。

総理大臣の辞職、内閣解散の理由は戦況の悪化などが主な理由ですが、昭和16年12月8日に真珠湾を攻撃してから昭和20年8月15日の終戦までの間のおよそ3年8カ月の間に2回総理大臣が変わっています。

第40代 東條 英機(昭和16年10月18日~昭和19年7月22日)
第41代 小磯 國昭(昭和19年7月22日~昭和20年4月7日)
第42代 鈴木 貫太郎(昭和20年4月7日~昭和20年8月17日)

勘違いの原因は「軍国主義」という言葉なのかもしれません。
軍国主義とは、外交の手段として戦争を重視し、そのために政治、経済、教育、文化といったあらゆる活動は、軍事力強化のために行うといった意味です。
当時は珍しいことではないと考えられますが、ともかく、ドイツのナチズム、イタリアのファシズムとは異なり、軍国主義という言葉は一般名詞です。

また、これは国としての方針の話であって、経済体制や政治体制はそれぞれまた別の話です。
当時の日本は指針としては軍国主義、経済体制は資本主義、政治体制は民主主義ということになるでしょう。

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